運営者の理念とプロフィール

はじめまして、「みちる」と申します。
30代女性で、2021年12月にクリスチャンとなりました。

私は、物心ついた頃からずっと、「見えない何か」に首輪をつながれているような生きづらさを感じていました。

その生きづらさが限界に達し、うつ病になったのをきっかけに、主のお導きでクリスチャンになることができました。

このブログは、

「宗教なんて嫌いだし、人付き合いもニガテだけど、救われたい」

そんな、かつての私のような人が救われる唯一の方法を、どうしてもお伝えしたくて作ったものです。

その方法をお伝えするためには、まず、私の人生についてもう少し詳しくご紹介させてください。

仏教の家系に生まれた「宗教ギライ」

私の実家は仏教でした。

とはいっても、ものすごく熱心だったわけではなく、人が亡くなったら仏壇で拝み、お盆にはお墓参りする。

仏教が「文化」としてなんとなく生活に根付いているだけでした。

ですが、親戚に1人だけ、すごく熱心なスピ系(スピリチュアル好き)の人がいました。

小さいときに疎遠になったので、その親戚が何の宗教を信じていたかはもうわかりません。
今思うと、何かの宗教というよりは、スピリチュアル系全体にハマっていただけかもしれません。

その親戚は、事あるごとに「神はどうたらこうたら」「信じなければ絶対にこうなる」と激しい口調で論争を起こし、いつも親戚の集会の雰囲気を悪くしていました。

別に、何かの信者であることがヤバいとは思いません(というか私も今はクリスチャンだし)。

ただ、その親戚のせいで、私はなんとなく「宗教=めんどくさい」という図式が頭に入ったまま大きくなってしまいました。

ぶっちゃけていうと、宗教とはあまり関わり合いになりたくないと思っていました。

大学に入ってひとり暮らしするようになってからも、宗教の勧誘だとわかったとたん、食い気味に「けっこうです」と言ってピシャリとドアを閉めていましたから。

生きづらさに窒息しそうで必死だった10代~20代

ちょっと話は変わるのですが、そんな子どもの頃の私は、自分にまったく自信がありませんでした

あ、すみません。
最後には希望のあるお話です。

私は自信がなかったせいか、生真面目な一方で、自分でも苦しくなるほどプライドばっかり高く、見栄っ張り。

常に、周りの目を気にしながら生きてきました。

性格の難を挙げればキリがありません。

情けなくて愚かな自分が、嫌いでした。

「自分を愛してみて」なんて人からアドバイスされても、自分を愛そうとしてみただけで冗談抜きに吐き気を催すほど、自分が嫌い。

唯一得意なことといえば、人の顔色をうかがうスキルだけ。

そのスキルすらも、社会で生きていくうえでは私を苦しめました。

「なんかこの人暗い表情してるけど、私といるのつまんないのかな。」

「こんなこと言ったら絶対ヤバい空気になるし、ガマンしよう…。」

「疲れてるっぽいから、今は話しかけられないな。」

こんなふうにいつも気を遣ってばかりいたので、人間関係なんて、ただ疲れるだけの代物でした。

信頼?愛?友情?

人間関係という名の苦行の中で、みんなどうやってそんなものを見つけているのか、さっぱり理解できませんでした。

軽く「人生ノイローゼ」状態です(笑)

そんな少しでも自分を変えようと、何度もカウンセリングを受けました。

専門家に頼れば、この生きづらさをなんとかできると期待したのです。

でも、先生たちはみんないい人だったのにも関わらず、根本的に自分の性格や苦しさが改善したことはありませんでした

もちろん、カウンセリングでよくなる人もいるので、カウンセリングがすべて不要だとは思いませんが。

カウンセリングの他にも、自分は「HSP」や何かの精神疾患なんじゃないかと考えて、いろいろ調べたりもしました。

でも、結局どれもドンピシャで当てはまるとは言えない気がして。


「私程度の生きづらさは、名前がつくほどたいしたものじゃないんだろうな…頑張らなきゃ。」


と自分を追いつめる日々が続きました。

30代でなったうつが「人生の大きな転機」に

社会人になると、みんなが当たり前にやっていることもできない自分にショックを受けました。

普通に出勤して、普通に勤務して、普通に有休をとることが死ぬほど苦痛だったんです。

業務はこなせるし、なんなら生来のマジメさゆえに、どちらかというと信頼されている職員だったと思います。

だけど、

  • 職場の人と他愛もないことを話す
  • 先輩に仕事のやり方を聞く
  • トラブルが起きたら誰かに報告する
  • 有休を取得するための申請用紙を上司に提出する

そんな「社会人としてごく当たり前のこと」が、どうしても苦痛で仕方がなかったんです。

なぜなら、人間関係がニガテだったから

できるっちゃできちゃうけど、少しでも人と接するタスクには、あまりに必死な努力が必要でした。

みんなの「当たり前」が合わない体質を呪いながら、毎日、働くたびに死にかけていました。

自分でも「いつかうつになるなこりゃ」と思っていたら、案の定、30代を迎えてわりとすぐうつ病になりました。

うつ病になると、「この自分が?」と思う人も多いみたいですが、私としては「ようやくなったか…」というカンジでした。

「うつになりそうだって自分でわかってたんだから、ちゃんと自己管理すればよかったのに」と自分を責めました。

でも、じゃあどうすればよかったのかもわからず。

同僚と話すと疲れるなら、無視すればよかったの?

仕事の手順がわからないけど聞くのが苦痛なら、自己流でやってしまえばよかったの?

トラブルのことを話すと嫌な顔をされるのが怖いなら、何が起きても知らんぷりすればよかったの?

有休のことを口にするのが怖いなら、休まず無理すればよかったの?

どれも不正解。
でも、無理した結果、病んだ。

「じゃあ、大人になっても当たり前のことができないなら、もう死ねばよかったの?」とかなり葛藤しました。

ほぼ一日中ベッドに寝転がりながら、「死にたい」と検索しまくる日々。

そのとき、偶然、「聖書で救われた」という人のブログを発見しました。

最初は「宗教かよ…」と、かなり懐疑的な目で見ていました。

そのうち、「まあ、聖書を読むだけなら私もやってみるか。仕事できないから時間はたっぷりあるし」と、軽い気持ちで無料の聖書アプリをダウンロードしました。

人生を変えるほどの劇的な出会いなんて、ドラマの中だけのお話だと思っていました。

まさか現実に存在するとは。

聖書に出会い心の葛藤がすべて癒される

私は昔から、

  • 愛してほしいけど、自分から愛するのは裏切られそうで怖い
  • 「助けてくれた」と思ったら手のひらを返される
  • どんな悩みでも相談できる相手がほしい
  • 何を言っても嫌われない保証がほしい
  • 何度でも許してくれる相手がほしい

こんな悩みをいつか解消するために生きている、といっても過言じゃありませんでした。

「多分一生報われないだろうな」というイヤな予感とともに。

でもやっぱり、こんな条件を満たせる人間ってなかなかいません。

「もうこんな神がかりな条件に合う人を探すのはあきらめて、強く生きよう。
私はたまたま、すべてを受け入れてくれる人に出会えなかった。
これ以上、人に期待して執着してもしょうがないし、他人に求めるのもかわいそうだ。」

そんな考えになっていました。

この考え自体は間違っていないと思います。

ところが、いたんです。

そんな心の傷を癒し、すべてを満たしてくれる唯一の存在が。

それが、聖書の神様です。

あ、待ってください。

「あー、この人疲れすぎて宗教にハマっちゃったんだな」と思わないでください。

言っておきますが、私は「宗教」という枠組みは今も苦手です。

周りを顧みずに自分の宗教のことをギャアギャアまくしたてるあの親戚を思い出しては、ついつい身構えてしまいます。

でも、「キリスト教」「仏教」など宗教の枠組みは別として、聖書という書物は自然と受け入れられたんです。

実はもともと、聖書は20代の頃に読んでいました。

英語の教授から、「英語圏の文化はほとんどキリスト教由来だから、聖書を読んでないと理解できないぞ」と言われたのが、聖書を読むきっかけでした。

そのときは、単にヨーロッパの文化を理解したかっただけで、聖書は「教養の1つ」くらいにしか考えていませんでした。

だから、うつになったときも、聖書を再び手に取ることに拒否感はありませんでした。

聖書の中でもかなり読みやすく、イエス様の福音について書かれている「マタイの福音書」からなんとなく読み始めました。

すると、福音書の内容が、上品で甘いお砂糖のように体にじんわりと優しくしみこんできたんです

もともと読書は好きじゃなかったのに、本を読んでいて涙がこぼれたのははじめてでした。

何度でも罪や裏切りを許し、何でも祈らせてくれて、けっして私を裏切らない存在がそこにいました。

それが、大きな愛そのものである神様、イエス様でした。

私の欠点や至らなさを肯定してくれる人はいないけど、イエス様は、そんな私の欠点ごと愛してくださる。

条件つきじゃない愛を知らず、いい年の大人になってしまった私に、イエス様は無償の愛を教えてくださった。

人を信頼して頼ることもできない私に、イエス様はいつも寄り添って、悩みを聞いてくださる。

何も成し遂げることのできない哀れで愚かな私を、イエス様は選んでくださった。

「私が長年求めていたものはこれだ…!!」と、聖書を読んで思いました。

でも、やはり聖書は宗教の聖典、懐疑的な目線で聖書を読んでいる自分もいました。

だから、聖書の真偽や正確な意味を確かめるために勉強しました。

それでもやはり、聖書はきっと正しい。救いはある。

勉強すればするほど、そう思えました。

イエス様の救いを苦しんでいる人たちに伝えたい

イエス様に出会って180度変えられた私は、イエス様の福音を苦しんでいる人たちに少しでも伝えたくてこのブログを立ち上げました。

「伝道」と呼ぶにはあまりにささいな活動ですが、どうしても何かしたくなったんです。

でも、やっぱり私は、宗教をゴリゴリにすすめてくる人は好きじゃない。

クリスチャンにはなったけど、「イエス様万歳って思え!!」と洗脳したり、他人に押し付けたりするようなことはしたくない。

だから、私のブログを読むかどうか、受け入れるかどうかは、自分で決めてください

「今つらくて苦しい人たちが、問題を解決するために「聖書」という選択肢を増やせたらいい」というくらいの考えで、私はブログを書いています。

30年以上苦しみに苦しんでたどり着いた、唯一の救いが聖書だったからです。

私は、牧師でもないただの一信者ですが、聖書について勉強したことや、クリスチャンとしての生活ぶりを、私なりにまとめてブログにしています。

ブログの内容が間違っていることもあるかもしれません。

そのときは、遠慮なくご指摘いただけると幸いです。

また、このサイトに書いてあることを鵜呑みにしないでください。

人は必ず間違えますし、私の言っていることは偏りがあるかもしれません。

このブログがどれだけ信用できるかは、客観的に判断してください

もちろん、私もなるべく正しいことを書くように尽力します。

読むだけならタダですから、ぜひ聖書を1度読んでみてください。

少なくとも、死ぬ前に

そして、このブログを読んでくださっているあなたが、神のお導きのもと、無事救いに至れることを心から祈っています。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

本サイトは、特に断りがない限り、日本聖書協会様の1955出版「口語訳聖書」を引用しています。

その他みちるのプロフィール

名前みちる
年齢30代
性別女性
教派教会に通っていないプロテスタントのクリスチャン
クリスチャン歴2021年12月~
人生を変えた聖句すべて重荷を負うて苦労している者は、
わたしのもとにきなさい。
あなたがたを休ませてあげよう。
(マタイによる福音書/ 11章 28節)
好きな聖句あすのことを思いわずらうな。
あすのことは、あす自身が思いわずらうであろう。
一日の苦労は、その日一日だけで十分である。
(マタイによる福音書/ 06章 34節)
座右の銘にしている聖句自由人にふさわしく行動しなさい。
ただし、自由をば悪を行う口実として用いず、
神の僕にふさわしく行動しなさい。
(ペテロの第一の手紙/ 02章 16節)

いつも、塩で味つけられた、やさしい言葉を使いなさい。
そうすれば、ひとりびとりに対してどう答えるべきか、わかるであろう。
(コロサイ人への手紙/ 04章 06節)
好きな聖書の人物預言者エレミヤ
好きなもの音楽、海外旅行、緑茶、書道、和菓子、お酒、事務作業